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自分で自分を褒めることで自己肯定感を~とか
自分で自分の機嫌を取ることが大人の対応で~とか
そういうのよく聞くけど、私の中には
「趣味で楽しい思いをしてはいけないのではないか」
「こんな無駄金を使うなんて親に申し訳ない」
「幸せになってはいけない」
みたいな思いがあって
実家出てるから私が何してるかなんて親は知りようがないし話すつもりも無いのですが
とにかく親への申し訳なさと”するべきではない”みたいな強い自縛感があって
常に親に監視されているように感じるし、創作なり何なりしていてもその瞬間は楽しいけど
一人になってふっとした瞬間にこういう感情に襲われて辛くなるんですよね。
一緒に遊んでくれる人は本当に感謝しているし、楽しいという感情は間違いのないものなんですよ。
その楽しかったことは事実だし変えようのない真実なのに、それを上書きしかねない感情がやってくる。
そして、当の親は着実に歳を取って老いていくから昔のように殴っても来ないし怒鳴ってもこないんですよね。
それが物凄く悲しく感じるし、同時に怒りのような気持ちも湧き上がってくる。
あれだけ酷いこと言っておいて何弱ってんだよみたいな。
都合よく労ってもらおうとすんなよみたいな。
勝手な言い分だとは分かってるけど、あんなに強権的で恐ろしい生き物だったものが
大人になった今見ると何とも哀れっぽく目に映るんですよね。
世間は親孝行せよ親に孫の顔を見せよ親を幸福にせよと訴えてくるし、それが社会的な正義となっているけど
私は到底そんな親孝行できないし、金銭的な援助もできないし孫なんか出来ないし
何なんですかね親って。
子供って何なんだろうなぁ…家族って…。
親孝行する子供と親孝行してもらえる親が社会の唱える理想的な家族なら、私の家族は家族ではないんでしょうね。
他人なら良かったのかなぁ。
そういう話でした。
自分で自分の機嫌を取ることが大人の対応で~とか
そういうのよく聞くけど、私の中には
「趣味で楽しい思いをしてはいけないのではないか」
「こんな無駄金を使うなんて親に申し訳ない」
「幸せになってはいけない」
みたいな思いがあって
実家出てるから私が何してるかなんて親は知りようがないし話すつもりも無いのですが
とにかく親への申し訳なさと”するべきではない”みたいな強い自縛感があって
常に親に監視されているように感じるし、創作なり何なりしていてもその瞬間は楽しいけど
一人になってふっとした瞬間にこういう感情に襲われて辛くなるんですよね。
一緒に遊んでくれる人は本当に感謝しているし、楽しいという感情は間違いのないものなんですよ。
その楽しかったことは事実だし変えようのない真実なのに、それを上書きしかねない感情がやってくる。
そして、当の親は着実に歳を取って老いていくから昔のように殴っても来ないし怒鳴ってもこないんですよね。
それが物凄く悲しく感じるし、同時に怒りのような気持ちも湧き上がってくる。
あれだけ酷いこと言っておいて何弱ってんだよみたいな。
都合よく労ってもらおうとすんなよみたいな。
勝手な言い分だとは分かってるけど、あんなに強権的で恐ろしい生き物だったものが
大人になった今見ると何とも哀れっぽく目に映るんですよね。
世間は親孝行せよ親に孫の顔を見せよ親を幸福にせよと訴えてくるし、それが社会的な正義となっているけど
私は到底そんな親孝行できないし、金銭的な援助もできないし孫なんか出来ないし
何なんですかね親って。
子供って何なんだろうなぁ…家族って…。
親孝行する子供と親孝行してもらえる親が社会の唱える理想的な家族なら、私の家族は家族ではないんでしょうね。
他人なら良かったのかなぁ。
そういう話でした。
自分にとって心地よい発言しかしてくれない人とか
何をやっても否定せずに肯定しかしてくれない人とか
そういう人で固める危険性というものをぼんやりと感じてきて
かといってネット上ですら自分に厳しい発言をする人を見たくはないなと言う気持ちも分かるし
かといって心地よい人ばかりを手元に置いて自分の間違いや常識の欠けを増長するのも怖いし
かといって…かといって…
どうすれば良いのかと言うと、その危険性を全て把握した上でだらだら遊ぶのが良いんでしょうけど
分かってても実践できるかと言うと難しいし
そもそもネットの付き合いなんだから、その人が間違ってると想ってもわざわざ指摘しないですよね
そこまで人生に責任取れないし取る義務もないし、勝手に頑張って生きててくれ的な
しかしメンヘラとツイッターとか相性最悪だよな……
オタクとツイもそうだし
でもツイやってないと公式追うのダルいんだよなとか
なんかみんなやってるし必須ツールみたいな雰囲気だし
みたいな…そういう…
ツイのヲチスレ化みたいなの見てるとヤバイなとは思うんですけどね
ツイ以外に支部やらタンブラーやらピクブラとかそういうの手当たり次第やるのも何かめんどいっていうか
掲載するSNS増やせば増やすほど何か管理面倒になってきそうだし
何が言いたいのか分からなくなってきた…
ここ最近お腹痛いし原稿が追ってくるし
働きたくない…
何をやっても否定せずに肯定しかしてくれない人とか
そういう人で固める危険性というものをぼんやりと感じてきて
かといってネット上ですら自分に厳しい発言をする人を見たくはないなと言う気持ちも分かるし
かといって心地よい人ばかりを手元に置いて自分の間違いや常識の欠けを増長するのも怖いし
かといって…かといって…
どうすれば良いのかと言うと、その危険性を全て把握した上でだらだら遊ぶのが良いんでしょうけど
分かってても実践できるかと言うと難しいし
そもそもネットの付き合いなんだから、その人が間違ってると想ってもわざわざ指摘しないですよね
そこまで人生に責任取れないし取る義務もないし、勝手に頑張って生きててくれ的な
しかしメンヘラとツイッターとか相性最悪だよな……
オタクとツイもそうだし
でもツイやってないと公式追うのダルいんだよなとか
なんかみんなやってるし必須ツールみたいな雰囲気だし
みたいな…そういう…
ツイのヲチスレ化みたいなの見てるとヤバイなとは思うんですけどね
ツイ以外に支部やらタンブラーやらピクブラとかそういうの手当たり次第やるのも何かめんどいっていうか
掲載するSNS増やせば増やすほど何か管理面倒になってきそうだし
何が言いたいのか分からなくなってきた…
ここ最近お腹痛いし原稿が追ってくるし
働きたくない…
例えば
今すぐに自殺したとする。
家族が悲しむとする。葬式が執り行われ、パソコンやネットに詳しい身内がツイッターやってたことを知る。
何かに悩んでいた様子を見、家族の悲しみが深まるとする。
○○は亡くなりましたなどとツイートするとする。
例えば、それを見たフォロワーなり何なりが悲しむとする。
楽しい人だったのになどと悲しむとする。
次に悲しんでもらえるのは何時なのかという話。
誕生日と命日の二日だけか、あるいは家族だけはずっと悲しんでくれるのか。
自分の死を重荷に感じてくれる誰かがいないかと夢想する。
が、そんな人はいないだろうという事実を知る。
ささくれみたいなもので、永遠に傷が残らなければ知らん間に治っているようなもので、存在が消えたところで誰にも惜しまれない。
例えば、自分にしか出来ないことを持っていたとする。
あの人のアレ凄く良かったのにね、続き気になってたのに読めないなんて。などと悲しんでもらえるとする。
自分は価値あるものだと認めてもらえたとする。
が、実際はそんなもの持っていない事実に気がつく。
自分にしか出来ないものなどなく、つまり自分がいなくても世界は回るし誰も痛みを覚えないという事実に気がつく。
自分が崇高であったり価値あるものではないかと期待していた自分に落胆する。
周囲の人々と比べて無価値な自分に落胆する。
例えば、それを吐露したとする。誰かが励ましてくれるか共感してくれないかと期待する。
が、そんなこと起こらず日常風景としてスルーされる。期待していた自分に落胆する。
と、同時に無視する周囲に落胆する自分に落胆する。
無価値であるがそれを割り切って楽しもうとすら思えない自分にガッカリする。
自分にしか出来ないものを見つけようと努力しない自分にガッカリする。
自分に期待している自分にガッカリする。
自分にガッカリする。
死にたいなと思う。
が、死のうとしない自分にガッカリする。
そういう毎日にガッカリする。
疲れる。が、終わらせない自分にガッカリする。
誰か終わらせてくれないかと期待する自分にガッカリする自分のことも自分で面倒見られない自分にガッカリする他人に顧みてもらえない己の無価値さにガッカリする価値ある人間の方が少ないのだと思いながらも無価値は罪だと思う自分にガッカリする人間にガッカリする何よりも自分にガッカリする
みたいな感じになりませんか?ならない?そう……
別に死にたいとは思ってないけど最近こういうことを強く感じるので
いよいよ駄目なんかなぁと思い始めた次第です
まぁこういうこと言ってる間は何ともないんですけど
こうしてお前は徐々に人々の記憶から消えてゆく/記憶に甦るのは一年にわずか二日/誕生日と命日の二度だけ/それだけ それだけ ほんとうにそれだけだ/一年に二度 人々はお前のことを思い出す/一年に二度だけ お前を愛した人々が溜息をつく/あとはたまたまお前が話題になったときだけ
今すぐに自殺したとする。
家族が悲しむとする。葬式が執り行われ、パソコンやネットに詳しい身内がツイッターやってたことを知る。
何かに悩んでいた様子を見、家族の悲しみが深まるとする。
○○は亡くなりましたなどとツイートするとする。
例えば、それを見たフォロワーなり何なりが悲しむとする。
楽しい人だったのになどと悲しむとする。
次に悲しんでもらえるのは何時なのかという話。
誕生日と命日の二日だけか、あるいは家族だけはずっと悲しんでくれるのか。
自分の死を重荷に感じてくれる誰かがいないかと夢想する。
が、そんな人はいないだろうという事実を知る。
ささくれみたいなもので、永遠に傷が残らなければ知らん間に治っているようなもので、存在が消えたところで誰にも惜しまれない。
例えば、自分にしか出来ないことを持っていたとする。
あの人のアレ凄く良かったのにね、続き気になってたのに読めないなんて。などと悲しんでもらえるとする。
自分は価値あるものだと認めてもらえたとする。
が、実際はそんなもの持っていない事実に気がつく。
自分にしか出来ないものなどなく、つまり自分がいなくても世界は回るし誰も痛みを覚えないという事実に気がつく。
自分が崇高であったり価値あるものではないかと期待していた自分に落胆する。
周囲の人々と比べて無価値な自分に落胆する。
例えば、それを吐露したとする。誰かが励ましてくれるか共感してくれないかと期待する。
が、そんなこと起こらず日常風景としてスルーされる。期待していた自分に落胆する。
と、同時に無視する周囲に落胆する自分に落胆する。
無価値であるがそれを割り切って楽しもうとすら思えない自分にガッカリする。
自分にしか出来ないものを見つけようと努力しない自分にガッカリする。
自分に期待している自分にガッカリする。
自分にガッカリする。
死にたいなと思う。
が、死のうとしない自分にガッカリする。
そういう毎日にガッカリする。
疲れる。が、終わらせない自分にガッカリする。
誰か終わらせてくれないかと期待する自分にガッカリする自分のことも自分で面倒見られない自分にガッカリする他人に顧みてもらえない己の無価値さにガッカリする価値ある人間の方が少ないのだと思いながらも無価値は罪だと思う自分にガッカリする人間にガッカリする何よりも自分にガッカリする
みたいな感じになりませんか?ならない?そう……
別に死にたいとは思ってないけど最近こういうことを強く感じるので
いよいよ駄目なんかなぁと思い始めた次第です
まぁこういうこと言ってる間は何ともないんですけど
こうしてお前は徐々に人々の記憶から消えてゆく/記憶に甦るのは一年にわずか二日/誕生日と命日の二度だけ/それだけ それだけ ほんとうにそれだけだ/一年に二度 人々はお前のことを思い出す/一年に二度だけ お前を愛した人々が溜息をつく/あとはたまたまお前が話題になったときだけ
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